本>グレート・ギャツビーと嫌われ松子の一生
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実は村上春樹の翻訳ということで、期待して読んだ割りに頭に残らなかった。小説の後に村上春樹の解説があり、そこで何故この小説が僕にピンとこないのか、ちょっとわかったような気がした。
そのピンとこない理由は、二つある。
①小説の賞味期限
最近も不二家の問題がクローズアップされたが、小説にも賞味期限がある。この小説が書かれた
1924年のUSAの時代背景が重要。盛大なパーティや上流階級の日常には、僕自身興味が持てな
い。古典というものは、時代にかかわらず価値を失わないものだが、ある時代にしかフィットしない
小説が価値がないとは言わない。逆に時代にフィットするものは、その時代に大きな影響を与えて、
そこで価値を全うする。それで十分なはずだ。
②翻訳することで失われるもの
村上春樹は、これは原文を読まないと伝わらないものがある、と言っている。そういわれると、返す
言葉はない。文体の重要性はとても認識しているが、味わえる程の読解力はないので、僕には
理解できない領域ということで、諦めた。
そうは言いながら、この小説の中で、心にひっかかったことはある。一つは、デイジーというわがまま
な女であり、もう一つはギャツビーを最後まで見届けたニック・キャラウェイである。デイジーという女は、フィッツジェラルドの妻ゼルダが重なるし、ニックはフィッツジェラルド本人かもしれない。
ギャツビーの死は本当に惨めなものだが、ニックだけは彼が何をしたか知っている。一人でもそういう人間がいて、わずかでもいいから共感してもらえれば、それでギャツビーは満足するだろう。同じ思いを最近見た映画「嫌われ松子の一生」でも感じた。松子の生涯も悲惨なものだが、甥がその過去を確認する作業の中で救われる。
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